三つ子の魂百までと言うが、両親からしつけられて知らず知らずのうちに叩き込まれているなと感じるのが、茶わんによそわれたご飯粒を最後の一粒まで残さず食べることだ。
周囲、例えば会社の同僚たちと社員食堂でランチをともにしたときにふと相手の茶わんを見ると、意外にもご飯粒が数十粒ほど残っていることが多い。
両親の教えはこうだ。
「農家の人たちが精魂込めて田んぼを耕して作ったご飯は一粒残らず食べなさい」
加え、言われはしなかったが、大人になるにつれて自ずと分かってくることとして、作ってくれる母親への感謝もあったと思う。
さらに、一人暮らしをして、たまに自炊などをすると、美味しく作ることに四苦八苦するだけでなく、食べた後の洗い物もやってみて初めて大変さを感じたりする。
何事もやってみないと分からない。
自分で洗い物をしてみて気づくことは、自分の食べた後、皿にかすかに残るキャベツの切れかすなども、流しのネットにはたまっていくことだ。一日だけならまだしも、朝昼晩を続けると1週間だと目に見えてたまっていく。
これを捨てたりするのは、ネットを捨てなければならず、手間だ。
この経験をしてから、自炊だけでなく外食の際にも、わずかな食材のいかに細かな切れ端も、箸でつかめる限り綺麗に食べつくすことを心掛けるようになった。
これはこれで気持ちいい。
つまりご飯粒や食材のいかに細かい切れ端も一片も残らずありがたくいただくことには次の意味があると思います。
- 食材を栽培したり、漁獲したり、飼育したり、運搬してくれた人への感謝
- 料理を作ってくれた人への感謝
- 最後皿を洗ってくれる人への感謝
金稼ぎには皿洗いに意味がないといい、食器洗浄機を薦める人がいるが、捉え方によってはいろいろなことが分かる意味のある作業だと思う。
仮に農業、料理、皿洗いに意味がないといえば、すべて自動化すればよいことになるが、それで余った時間でどんなすごいことができるのか。
皿洗いに意味がないという人にとっておきの話題を提供したい。
Microsoft創業者Bill Gatesの毎日のルーティンは夕食後の皿洗いだとRedditで発言していました。
訳:(あなたが他人から意外と思われるけど、楽しいことがあれば教えてもらえませんか、という質問に答えて)ブリッジはある意味昔ながらのゲームですが私は大好きです。今週末は娘が馬にのっているのを眺めていました。これも少し古風ですが、楽しいものです。私は毎晩皿洗いをするんです。周りの人は手助けを申し出てくれるんですけど、私は自分のやり方で皿を洗うのが好きなんですよ。
最近のプライベートの変化によって、洗う必要はなかったけど洗っていたのが、洗わざるを得なくなった時に皿洗いにどういったスタンスで臨めるのか、これも興味ありますね。
もちろん皿を洗えばBill Gatesのように金持ちになれるかというと決してそんな訳はないのですが、「金稼ぎのためには(人生において)皿洗いに付加価値がない」、と言いながら金稼ぎに猛進する人は何だか浅はかに見えますし、周囲(洗ってくれる人)への感謝なしに稼いだ金にそれほど意味があるのか、どっちかというと貧乏たらしい言葉に思えてきます。
というわけで、食洗機は買うにしても、皿を洗ってくれる人への感謝を忘れないで生きていきたいと思いました。
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